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「漆」それは日本の象徴
〜漆(japan)〜
○はじめに
私達にとって「漆」は日常からは遠いものとなっているのではないだろうか。 それもそのはず、国内で出回っている漆の9割以上は外国産の漆である。私達が国産の漆をイメージする際、 「高価で稀少な為、手に取りづらい」と、多くの人が感じているだろう。対して、私達の身近に流通している 外国産の漆は、低コストで大量生産を売りにしている為に粗悪なものが多い。これらの背景は、現代人が 漆を身近なものとして位置付けることができない要因となっている 。更に、縁遠いと感じる故に、「漆についてよく理解していない」という人々が多くなっているのが現状だ。 この記事を機に、漆の魅力を少しでも知ってもらいたい。
ウルシとタカッポ
(中崎撮影 2024年8月29日)
○漆の歴史
〜実は漆は身近な存在だった?〜
現在では縁遠い存在となっている漆だが、 「日本人」と「漆」との結び付きは深いものであった。
世界最古の漆の起源は何と日本にあり、1960年頃から発掘が始まった福井県の鳥浜貝塚で発見された 「赤色漆塗り櫛」だ。おおよそ1万2600年前の縄文時代の産物と推定されている。他にも、多くの縄文時代の 遺跡から副葬品として漆は発見されている。遺跡などから出土された漆の用途は様々である。 器類や服飾品類には塗料として使用しており、武器類 (弓)などには、矢じりと木の接着剤として使用していた。 縄文人は漆を日常品と深く結び付けていたことが見てとれる。現代においても漆の塗料と接着剤としての用途は 引き継がれており、漆器はもちろん、国宝の金箔の修復に接着剤として使用している。また、 「赤色漆塗り櫛」 からも分かるように、当時の出土品の多くが漆の赤色の塗料を使用している。縄文人にとって 「赤」は、 血や魂を表す色として考えられており、魔除けや復活の意味を表していたのではないかという研究も存在している。
更に、江戸時代には漆工を招き、蒔絵といった技法が創出されたことにより、漆器の生産が発展した。 その結果、日本からヨーロッパへの輸出品として漆器がとても流行した。そのため、漆器の価値は10倍ほどにまで 跳ね上がり、高級品として王侯貴族がこぞって買い求めたり、宣教師達の祭器具として使用されたりしていた。 この当時の西洋では、黒が高級品と連想する傾向にあり、当時の輸出品の漆は黒うるしの地に蒔絵や螺鈿といった 技法を用いられたものが多く見られていた。繊細で豪華な蒔絵の様に魅了された西洋人は、これを「japan」と呼んだ。 そして、蒔絵の際に金銀粉を蒔き付ける技法は日本が当時、 「黄金の国ジパング」と呼ばれていた理由の1つであるとされている。
これらの通り、漆は古来から日本人にとって無くてはならないものとして存在し続けていた。 上記の用途の他にも、ウルシの実を蝋燭として使用する 「漆蝋」や、実を袋に詰めて廊下を磨く等といった 日常生活の中でも漆は日本人と関わってきていたのだ。このような背景を知るのと知らないとでは、漆に対する 私達の認識も変わってくるのではないだろうか。
二戸市のウルシ林
植林から6年目の様子
(中崎撮影 2024年8月2日)
○漆掻きとは
〜漆掻き職人ってどんな仕事?〜
漆掻きの様子
(中崎撮影 2024年8月2日)
漆掻きの道具
(中崎撮影 2024年8月7日)
漆掻きは、6月から11月に行われる。漆掻き職人(掻き子)がウルシの木に傷をつけて分泌される樹液を採取していく。 ウルシは苗畑で育てた苗木を山に植え替えて、約15年かけて育てていく。5ヶ月の漆掻きの作業の中で、1本の木から 200gしか漆は採れないのだ。
漆掻きの道具には、漆鎌(樹皮を削り傷をつけやすくするもの)、漆鉋(傷をつけるもの)、掻ベラ (滲み出た液を集めるもの)、エグリ(樹皮が厚い時に漆鎌の代用として使うもの)、タカッポ (漆を集めるタル)がある。その中でも、毎年交換が必要になる漆鉋を作ることができる家事職人さんは青森県の 田子町にしかいないのだ。漆も漆掻きの道具も大変貴重なのである。
〜漆掻きの種類〜
漆掻きには、「養生掻き」と「殺し掻き」という掻き方がある。 養生掻きとは、ウルシの実をロウソクの原材料として使用するために、ウルシの木を枯らさずに漆を採る手法で、 木に傷をあまり付けないので生産量は落ちる。「殺し掻き」は、ウルシの木に沢山の傷を付けて漆を採取する手法で、 ロウソクの需要が低下している現在では主流となっている手法である。(喜多方市も殺し掻きを用いている)漆の 採取を終えた後に、木を1周させて傷をつけて樹液の流れを止める「止め掻き」を行い冬の前に伐採する。伐採後の 翌春には新しい芽が生える(萌芽更新が始まる)ので、手入れを加えながら育てていく。萌芽更新したウルシは 10年程で次の漆が採れるという仕組みになっている。
〜漆の種類〜
ウルシから採れる樹液である漆には、採取の時期によって名称や性質が異なる。6月から7月中旬に採れるのは 「初辺漆」と言い、水分量が多く硬化が早い。7月中旬から8月に採れるのは 「盛辺漆」と言い、水分量が少なく ウルシオールが高い。ウルシオールとは漆の主成分であり、含有量が高いほど漆が丈夫で硬くなる性質がある。 9月に採れるのは「末辺漆」と言い、水分量が多く初辺漆より乾きが遅い。 ここまでが、ウルシの木に傷を付けて採る「辺掻き」の工程である。 10月以降は、ウルシの木の幹から採る 「裏目漆」と、枝から採る「瀬〆漆」の時期となる。
〜漆掻きの流れ〜
1.
下準備
・・・ 風通しと日当たりを確保するために下草を刈る。
↓
2.
目立て
(6月中旬) …辺掻きの位置の目安としてしるしを付ける。
目立てから漆は出てこないが、木は刺激を受けて漆の合成を始める。
↓
3.
辺掻き
(6月下旬〜9月下旬)…目立ての傷の上に、長い傷を4日ごとに付けていく。
1度に傷を付けると漆の木が弱ってしまう。
傷に水が入ると漆の出が悪くなるため、雨天時や
幹が濡れている際には漆掻きを見送る。
常にウルシの健康状態を確認しながら採取していく。
↓
4.
裏目掻き
(9月下旬〜10月下旬)…辺掻きよりも長い真っ直ぐな傷を付けて漆を採る。
↓
5.
止掻き
(10月下旬〜11月中旬)…幹を一周させる傷を付けてとどめをさす。
喜多方のウルシの木
漆が出ている様子
(中崎撮影 2024年8月29日)
〜ウルシの掻き方〜
1.鎌ずりを行う。漆に余分なゴミが入らないように鎌を使って傷を入れる位置の樹皮を剥ぐ。
↓
2.カンナの曲がっている刃で水平に傷を付ける。
目立てから漆は出てこないが、木は刺激を受けて漆の合成を始める。
↓
3.その傷に沿ってカンナの尖っているメサシの部分でもう一度傷をつける。
↓
4.滲み出た漆をヘラで摂りながらタカッポに移す。
職人による作り立てのカンナ
(中崎撮影 2024年8月3日)
○会津の漆器の歴史
〜何が違うの? 喜多方漆器〜
漆は古くから土器や道具、仏像などに使われてきた。会津漆器の起源は1449年?1451年まで遡るといわれている。 会津地方に本格的に漆器が伝わったのは1590年で、会津領主の蒲生氏郷が旧領の近江国(現在の滋賀県)日野から 木地師と塗師を招いて製法を伝えさせたことが始まりである。喜多方は会津若松に次ぐ会津漆器の産地であった。
喜多方の漆器は、会津若松の漆器と比べて、生活に根付いた漆器の生産が盛んであった。 つまり、お椀類などの「丸物」が中心となっていたのだ。そこから分かるのは、喜多方の漆器業が農閑期の 副業として発展したという特徴があったということだ。
1950年、全国的にプラスチック素地の漆器が導入され、漆工芸品の生産力が過去最大の規模にまで上昇した。 特に、高度経済成長には大量生産だけを目的としていたことで、質の悪い漆器が増えてしまった時期もあった。 合成漆器自体は悪いものではないが、会津漆器が伝統工芸として位置づけられている以上、極端に質の悪い漆器を 作られていた時期に被っている40代〜50代の世代の塗師の方が少ないようだ。 その為、若手の弟子入り先が少なく、塗師の年齢層が極端に2極化してしまっているという課題が生じている
〜職人の腕の見せ所 喜多方漆器〜
喜多方の漆器の特徴は、作業工程を抑えることで価格や完成までの時間を削減させ、生産量を上げることに 集中できることだ。漆器生産で有名な 「輪島塗」や、漆の生産量で全国1位を誇る二戸市の「浄法寺塗」も、 「喜多方塗」と比べて下地を塗る回数が多いという特徴がある。最小限の作業で完璧に仕上げなくてはならないからこそ、 職人の技量が明確に分かるのだ。ただでさえ、漆は温度や湿度といった外的要因に影響されやすく、 同一の漆器を作り上げることは難しいとされている。喜多方のシンプルな作りの漆器は、漆器同士の違いが一目で分かるのだ。 そのため、細心の注意を払いながら高い技術力を有した塗師が喜多方にはいるのだ。
〜次世代にも繋ぐ 喜多方漆器〜
現在、喜多方市の全ての小中学校が学校給食において喜多方漆器を使っている。 この取り組みは、平成10年に豊川小学校から開始され、平成21年には市内全ての小中学校でも普及された。 学校給食で使っている漆器は、年間で役1600個程度にも及び、漆器の塗り直しや修復は 「会津喜多方市漆器商工協同組合 」が行う。天然素材ならではの手触りの良さ、口当たりの良さや保温性といった漆器の特徴が存分に発揮される アイディアとなっている。
また、使い込めば使い込むほど光沢のように磨きがかかり、漆器も子供達と共に成長していくという過程を味わうことができる。 毎日の給食が子供達にとって更に楽しいものとしている。地域の伝統工芸に幼少期から身近に触れることができる機会は、 学生達にとって貴重なものである。本来では身近に感じることのできない漆器。 しかし、学校給食という日々の出来事の中で触れることにより、自らの住む地域の伝統や誇りに気づくこと、 魅力を再確認する機会を得ることは貴重な体験といえるだろう。漆も含めた地域の宝に対して興味を持たせる 良いきっかけ作りとなる取り組みだ。
漆器で昼食を
(中崎撮影 2024年8月7日)
○喜多方市で活躍する職人
〜漆業界のオールラウンダーが熱塩加納に〜
齋藤さんがカンナで傷をつけている様子
喜多方のウルシ林
(中崎撮影 2024年8月29日)
熱塩加納町に在住の齋藤傑さん。 実は、喜多方市に5人しかいない漆掻き職人の1人であり、「漆と木 工房 温」を奥様と営みながら 工芸家としても活躍している。齋藤さんは、地域おこし協力隊の募集によって香川から移住してきた。 現在は、漆掻き職人と漆工芸の作家として、掻きも塗りも彫りも熟している。 まさに、喜多方市の漆業界を牽引している存在と言えるだろう。
〜齋藤さんと漆との出会い〜
実は齋藤さん、大学時代には絵画のテンペラ画を専攻していた。 テンペラ画とは、油彩画や水彩画よりも前の中世の絵画技法の1つで、卵や牛乳、漆といった乳化作用を持つ物質を 固着材として利用しているのが特徴だ。大学では絵画の成分の研究で漆に出会った。 その後、興味を持っていた「漆」と「モノづくり」の分野に携わりたいと考え、29歳の時に香川漆芸を学んだ。 香川漆芸は、漆の塗りと彫りを一体で取り組みのが特徴である。齋藤さんは、将来の商業イメージを思考した際に、 漆を塗るだけでは他所の援助なしで独立は不可能と考え、形作り(彫り)も行うべきと考えた為に伝統工芸である 香川漆芸を学んだ。その後は、小豆島で独立もしたそうだ。そこから、伝統工芸の香川漆芸には無い、日用品の モノづくりにも興味を抱き、お椀塗りで有名な喜多方市で地域おこし協力隊の募集を行っていた事、親族のもとで 授かった子供を育てたいと考えていたことが合致して、現在の住居である熱塩加納にて自身の工房を構えている。 今年の7月には 「FUKUSHIMA KAWAII KOUGEIプロジェクト」のメンバーとして、フランスにて「第23回 Japan Expo Paris」 で漆工芸の展示会も行った。齋藤さんは、熱塩加納から世界でも活躍する人材となっているのだ。
〜漆に対する熱量は人一倍〜
私が齋藤さんと漆関係の場で出会ったのは、私の故郷であった。 私の故郷は岩手県の北部に位置する二戸市浄法寺町という地域で、漆の生産量が日本の8割程を占めている。 今年の8月2日と3日に齋藤さんと喜多方市の漆掻き師と協力隊のメンバーの合わせて4名と共に二戸市のウルシの 植林地の見学、漆掻き職人や行政の方のお話、青森県田子町の漆掻きの道具を作っている鍛治職人のお話などを伺った。 齋藤さんは、漆掻きが盛んに行われている二戸市に出向き、五感を通して技術や見識を深めていた。喜多方市と 二戸市では植生は異なるが、掻きや塗りで共通している部分から喜多方の漆産業で生かしていける技術を吸収して いるように感じた。沢山の質問や撮影からは、喜多方の漆産業に対して多くの熱量を抱いていることは明らかであった。 私自身も漆に対する興味を持つ身であるので、漆に対する直向きな姿勢は見習わなければならないと感じた。 県を跨いで、更には海をも渡って漆産業に 携わる行動力を持つ人材は、今後の喜多方の漆産業、更には国内の漆産業においても貴重な存在ともいえるだろう。 漆掻き職人でもあり、漆工芸の作家としても活躍している。漆に対してオールラウンダーでありながら、常に漆に対して 学ぶ姿勢を持ち続けている向上心がある齋藤さんの今後の活躍に注目していきたいところだ。
斎藤さんがタカッポに
漆を入れている様子
喜多方のウルシ林
(中崎撮影 2024年8月29日)
熱心に漆の説明を聞く斎藤さん
二戸市のウルシ林
(中崎撮影 2024年8月2日)
記事製作者:中崎 涼介
(C)福島大学 行政政策学類
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